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2012.08.24

その時代を生きる

 世の中の変化が激しく、年齢を重ねた我々では、ついていけないことが多い。たとえば、AKB48にしてもスマートフォンにしてもよくわからない。かつて、役所の通知は、手書きであった。字の上手な人は、それだけで価値があった。その時代に、ワープロなどをみんなが使うようになるとは、考えてもみなかった。いまは、私の机にもパソコンが二台置かれている。文書も手書きでなく、こうしてパソコンを使っている。こんな時代がくるとは、考えてもみなかった。私個人としての驚きは、あのレコードが無くなりCDに変わったこと。レコード大賞は、いまでも残っているが、友人がいまにレコードが無くなると言ったとき、そんなバカな、と言った記憶がある。自分では、どうすることもできない時が流れていく。
 下伊那郡阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が建設される。多くの満州移民を送った下伊那の中に、歴史の伝承、平和の希求のシンボルができることは、すばらしいことと思って期待している。そんな中で、強く感じることがある。それは、戦後67年経過し、戦争を知らない世代が過半数を占める現代から「満州開拓移民」ということを振り返ることの意味である。泰阜村は、満州泰阜分村を建設し、1174人という村民を送りだした。その分村建設は、昭和13年の議会で決定している。当時は、まだ二元代表制になっていないので、議会の代表は、村長であったはず。したがって、村全体で決めた。隣の現阿南町の大下條、当時の大下條村は、佐々木という村長が満州移民政策に批判的で、開拓に出すなら国内という方針であった。天竜川を挟み全く対照的な方針といえる。
 この歴史をいま振り返ると、大下條村は、いい選択で、泰阜村は、悪い選択だった、という評価もできる。はっきりした声でもなく、何となくだが、満州へ分村をつくる計画をした泰阜村の当時の為政者は、間違った選択をした、という雰囲気を感じてならない。私が村長にならなければ、私自身も心のどこかでそういう思いを持ったのかもしれない。4年前に「満洲泰阜分村70年の歴史と記憶」を出版したころからいろいろ考えるようになった。
 昭和13年当時、私が村長だったらどうしただろう、と。6000人近い村民を、飢えさせずに、国民村民として生活させていくにはどうするか、それなりの議論の結果だったんだろう、と思う。いまのように、学問のできる人は、東京へ行ってしまう時代ではない。山村でも優秀な知識人が多かったころの選択である。起死回生策として選択したのではないだろうか。国も県も積極的に推進し、財政的な支援もある。それに乗ったわが村の先輩の選択は、それなりに評価しなくてはいけない、と思うようになった。
 これは、20世紀の後半の経済成長時代を経験し、山村でもトイレは水洗になり、どこの家庭でも自家用車があり、食べ物もあふれ、不況とはいえ、とりあえず明日の暮らしの心配もない、そんな時代に生きている人間が過去をどう振り返るのか、すなわち、歴史観とは、何かということである。
 私の母親は、大正15年、つまり昭和元年生まれであるが、太平洋戦争がそのまま青春である。なんと不幸だったか、という言葉は聞いたことはないが、私の母だけでなく、その時代に生きた人はたくさんいる。そして亡くなった方も。私は、昭和25年に生まれたが、もう少し後に生まれれば、と思ったり、あの平安時代に生まれれば、と思ったり、将軍家に生まれればと考えたりするけれど、結局、今を生きるしかない、ということ。泰阜村でいえば、過疎化という言葉とともに、つまり人口減少とともに生きてきたのである。それでも経済的には、毎年毎年豊かになっていく社会を生きさせてもらった。
 それぞれが「その時代を生きる」しかない。その中で、過去を振り返り、未来を志向する。それには、かなりの想像力を働かせないと、間違った歴史観、未来観になるのではないだろうか。飽食の時代に、飢えた時代を想像する、平和ボケの日本で戦争を想像する、よほどの努力をして、感受性をもたないと無理だろう。しかし、それでもいまの時代を生きている私たちは、今の時代を受けとめながら、歴史観や未来観を磨くことが必要だと。
 満州開拓が苦しい逃避行だけで語られたり、戦争批判だけにならないことが大切ではないだろうか。その時代を生きた人間の苦しみや悲しみに思いを馳せてもらいたいものだ。
 過疎の山村で「起死回生策」を見いだせない平成24年の村長。満州開拓を起死回生策と選択した昭和13年の村長。どちらにもその時代があり、それぞれの苦しみ、悲しみがあったことを次世代も考えてほしいものだが。
 
 

10:34 午前 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック