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2011.04.13

東日本大震災に深く考えさせられて

 3月11日の午後、議会の常任委員会に出席していたが、3回のゆれのあとテレビをみた。名取市へ津波が押し寄せる映像が最初だったが、私の眼には、それはフィクション映画のように映った。それが現実の出来事である、と思えないような大災害であった。
 私は、身勝手な人間だということがわかったのですが、最初に思ったのは、「ああ泰阜でなくてよかった」ということでした。その後、壊滅的な被害を受けた市町村、とりわけ町、村のことを考えると、私がその町村の長だったら、どうするのだろうか、と考えさせられた。自分の能力では、町の再生ができないのではないだろうか、これが本音である。それだけに、テレビに出演する記者や評論家のようなことはいえない。
 今回の大震災の対応が難しく、複雑なのは、原発の破壊があったからである。福島原発が、女川のような程度だったら、原発に対する評価は、全く違ったものになったような気がする。世の中の歴史は、常に、紙一重の世界で大きく違うことを改めて痛感させられた。
 この大震災に関しては、村としてもその能力の範囲で支援をしていこうと考えているが、これは当たり前のことで、明日は、わが身であるということ。この小文の中では、支援うんぬんでなく、この大震災をどのように考えてこれからどんな日本を想像したらいいのか、考えたみたい。
 毎日、3.11のことが書かれている新聞の中で、4月10日付信濃毎日新聞の姜尚中(カン・サンジュン)東大大学院教授に聞く、という紙面での姜氏の言葉が印象に残った。それは、今回の震災は、戦後という時代の終わり、を現実のものにした。戦後という時代は、東京的なものを地方に増殖させることが豊かさにつながるということであり、ほとんど根拠のない科学技術へのオプティミズム(楽観主義)を、みんなが共有していた、という。広島、長崎を経験しながら、原子力の平和利用という逆立ちの論理がまかり通った。そして、東京的な豊かさを支えていたのが福島という地域社会であったことも白日の下にさらされた、という。
 姜氏は、だからこそ3.11以前には戻れないと思う、と述べている。復興、復旧でなく、新生という言葉でなければならない。
 私は、戦後の山村の村づくりが「東京に追いつけ、追い越せ」という開発型であった。しょせん、東京なんかに追いつけるはずなどないのに、まさに東京的なものに近づくことこそが成長、発展、豊かさの享受と考えてきた。姜氏から離れるが、今回の震災でものづくりの現場で部品が供給されない事態となった。世界のトヨタのジャストイン方式、つまり、在庫を持たずに必要なものを必要な時につくる、という考え方に疑問を呈す人も現れた。
 いつかこの成長、発展万能主義、科学技術の進歩が自然界を制するといった考え方がつまずくのではないだろうか、と漠然と考えていた私にとって、今回の科学者の想像を超える大震災は、人間の生き方をもう一度考え直すことになるだろうとも感じていた。まさに、姜氏のいう東京的なものを地方に増殖させてきたこの流れを断ち切ることが「新生」になるのではないだろうか、と思う。
 東北的なものをつくりあげるには、時間がかかるだろうし、気が遠くなるのかもしれない。しかし、その東北的なものを考え、作り上げていくことに長く、長く支援していくことこそが我々にできる支援であろうと思う。
 そして、やはり泰阜は、泰阜的に生きる以外にない、ということ。これが、今回の震災からとりあえず学んだことである。
 

10:50 午前 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック