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2009.01.21

「民意」という言葉を考える

 私は、民意=民の心=という言葉をよく使う。よく使うようになったのは、田中康夫知事誕生のときからである。このときの選挙では、村の政治に携わっていた私も含めた関係者は、田中氏を支援しなかった。しかし、長野県民が選んだのは、田中氏であった。県政や村政に携わっていた我々はショックであったが、同時に、いままで多くの県民の心、すなわち「民意」を把握してきたのだろうか、ということを考えさせられた。常に、県民、村民のことを思いながらやってきたのに、という思いもあった一方で、政治というのは、真の民意をつかむ努力をしなければいけない、という思いからそんな話をするようになった。しかし、現実に村長という立場にいると、村長も村民から選ばれた代表、議会も代表、つまり、どちらも民意の代表。その代表が、村の政策を決定し、遂行しているのでそこで議論されれば手続き上何の問題もないはずである。これが問題なら間接民主主義は、どうなるのか、でもある。
 今回改めてこの問題を考えさせられたのが、岐阜市長選挙である。市立岐阜商業高校のあり方をめぐって、議会と対立した細江市長は、民意に問う、として辞職後、出直し市長選挙に立候補した。前述のとおり、議会も代表、市長も代表、その意見が対立した。さあ、どうするか。トップとしての意思を貫徹することが、住民の利益になると判断していれば、何があろうと初志貫徹するという政治姿勢に共感するので、岐阜市長の行動は、たいしたものだ、と思った。同じような行動では、郵政民営化の小泉首相とダブる。あの時、郵政民営化によりどんな影響があるのか、といった冷静な判断より、初志貫徹のために、衆議院を解散して国民に訴えるという、リスクを背負ってでも戦う強いリーダーに酔ったのではないか、と思う。今回もそれに近いことが起こるのでは、と思っていた。
したがって、反対した議会の中から対抗馬が出て、選挙になると予想した。まさに、争点を一つに住民の声を問うことになるのである。それがいいのかどうかは、別の問題として。
 ところが、最終的に強力な対抗馬が出ず、細江市長が当選しそうな情勢のようである。これで議会は、再び反対できる。一方、市長は、当選したのだから、民意は支持した、民意は我にあり、と主張するであろう、と推測する。 結果はどうなるのか、それはわからないし、岐阜市民が決めることである。
 この岐阜市の動きは、地方自治に携わる者として深く考えさせられることである。ただ、郵政民営化や長野県のダムと違い、教育という課題であり、争いにふさわしい課題かどうか、という問題はあるが。
 最近は、リーダーシップ論ばやりであるが、強いリーダーが求められるということに異論はないのであろうが、強さとは何であろうか。私は、対立した議会代表と市長が立命館誘致と市立岐阜商業存続をかけて、激しい選挙戦をやるものと思っていたが、そうでないところをみると、外でみるより複雑な問題なのだと思う。この場合、複雑ならば、教育という視点から時間をかけてねばり強く結論を導きだすようなリーダーは、どう評価されるのだろうか。根回しではだめであるが。
 私も結論を急ぐし、自分の考えがほぼ正しいと思うタイプのようである。だから、議会と対立することもある。それでも「村民の立場、利益」に立ち返って判断しなおし、それでも私の考えていることが正しいと思えば、貫徹したいと思う。貫徹できないときにどうするのか。その時は、辞めるというのが政治家なのだろう。
 ただ、民意といっても、感情論だけが先行する自己利益を主張するようなものもあるので、見極めが必要である。そこで最近は、真の民意という言い方をしている。
 理想は、私こそ民意である、といえるようなリーダーであろう。そんな思いを持つには、村政に情熱を持ち続けなくてはならない。長く村長をやっていると、一番難しいのがこの情熱の維持である。
 論理は飛躍するのかもしれないが、民意の反映を思うと、結局住民の政治関心度、最後は投票行動になるのかもしれない。地方自治も、つまり我々自分自身の責任になるのであろう。
 
 
 
 
 
 

10:23 午前 | 固定リンク

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