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2008.09.26

小学校の運動会をみて考えた

 台風の影響で天候が心配されたものの、朝には雨があがった9月20日に二つの小学校の運動会が行われた。学校のことだから前日に延期を決めるのでは、と思っていたが、グランドを手入れしてでも実施してくれてほっとした。21日が雨となり、結果的にこの選択は、吉、であった。何としても土曜日に、という意欲があったとすれば、それが誰のためであったのか、それはわからない。でも、行事は、予定通り行われた方がいい。
 さて、南北に二つの小学校があるので、午前、午後と二つの小学校を訪問する。立場上、来賓祝辞などを申しあげるので、交互にできるよう配慮しているつもりである。今年は、北小学校であいさつをして、午前中北小学校運動会を見学した。陽射しが強くなった。いつも思うのだが、子供や保護者は、炎天下に座り、来賓は、テントの下。主人公は、子供なのに、これでいいのかなあ、と思う。来賓は、炎天下で、子供たちがテントの下の方がいいのでは、と思がどうなのであろうか。
 本題に入るが、北小学校の高学年が「騎馬戦」を行った。私は、感激してみた。いま、学校現場や保育園、さらに福祉現場全体にもいえるが、「リスク」対策が大きな課題になっている。危険なことに挑戦し、もしケガでも負ったらどうなるのか、すなわちその責任は、誰がとるのか、ということ。昔は、それは、わが子の責任、本人の責任ということで問題になるケースはほとんどなかったのではないだろうか。しかし、最近は、管理者としての責任を考えると危険なことはできない時代になった。
 もちろん、介護現場など、あきらかに介護技術が未熟であったり、時間がなく手抜きによっての事故がおきることも否定できない。これが問題にされることもあるが、過失責任は負わなければならない。
 総合的に考えると、過失のないようにやるけれど、それでも起きてしまった事故をどうするか。それは、受け入れていただく以外にない、という理解ができる社会であってほしい。が、いまは、その責任を問うことの方が重要になってしまった。というより、そういう社会を作り上げてしまった。確かに、人命にかかわるとそれは大変である。一方、私たちが生きるということは、常にリスクと共存していることでもある。一例でいえば、車で通勤しているが、車に乗る以上、最大死亡事故までに遭遇するという覚悟を持っていなければならない、と私は思う。
 公園のブランコが落ちて事故があった場合、その責任は、公園管理者である市町村の課長であり、最終責任はトップである。遊具があった方がいいという善意なのだが、責任を問われるなら、危険なものは設置しない方がいい。サッカーの試合中に、落雷で亡くなったのは、監督の責任。となると、雷がなれば、野外での競技は、やらせることができない。プールなども使わせない方がいいのかもしれない。現場では、こんな考え方がどんどんエスカレートしていく。
 話をもとに戻すと、小学生の騎馬戦である。帽子を取るだけとはいえ、ひっかいたり、落馬での事故も想定できる。こんな時代にあえてやる競技でもないのでは。組体操で十分では、と考えて当たり前と思う。それでもやったのは、たぶん勇気ある教師が一人いたのだろうと推測できる。それを認めた教頭、校長もいた。私は、社会の中で生きるには、常にリスクと共存しているという現実を知り、また、どんなにがんばっても負けるという事実を体験する必要を感じている。運動会など小さなことではあるが、応援合戦に負けて泣き、紅白対抗で負けて泣く子供の時代にこんなことを経験させることを教育というのではないかと思う。北小学校で騎馬戦ができたのも、日頃の保護者、子供との信頼関係が厚いのだろう。リスク対策が叫ばれるが、それは「信頼」という二文字によって解決される。というより、リスク管理などという仕事に時間を割く必要もなくなるであろう。南小学校では、先生たちがお揃いのTシャツを着ていた。校長も教頭も。教員一丸という感じを受け、これなら保護者の信頼もあるだろうと思った次第。
 さて、この北小学校では、我々が保護者の時代から、運動会のあと教員、保護者、来賓含め「慰労会」が行われる。二次会は、校長住宅である。私は、校長住宅まで皆勤であるが、何年か前、若い女性の体育主任(運動会担当)の先生が、大成功に終わった運動会に感激し、涙を流しながら校長住宅で何度も乾杯した。そんな純粋な先生の気持に、汚れた私の心もきれいにさせられた。今年も騎馬戦で、最後引分けというときでピストルを撃った先生の気持ち聞きながら酒を飲んだ。私は、性善説に立っているが、多くの人間は、悩みながら、考えながら、答えの出ない社会で悶々としながら生きている。そんな心の奥底は、酒でも飲まなければ語れない。ただし、大事なことは、それを聞いても忘れることである。この慰労会の参加者も減少傾向。そういう時代なのだろうか。社会を維持していく大切なものが失われていくような気がする。社会のルールはあっても、そのルールは、法律の条文で守っていくのでなく、人間同士の理解で守られていく。気の合った仲間だけで、またわが子だけで社会が構成されているわけではない。それをぎくしゃくさせず動かすには、潤滑油がいる。社会の潤滑油を「酒」と思っている。
オイルが切れれば、車も壊れる。オイルは、少ないけれど重要なのである。農機具も動かす前に、注油が必要。
伝統ある慰労会も継続してほしいと思うが、統合もありどうなるのであろうか。
 慰労会のあいさつで、校長が、いい運動会ができたのも教員のおかげとその努力を誉めた。日頃は、どうも教師は、うまいことを言いすぎる、だから管理職としての指導力にかける、と思っているのだが、この日は、素直に聞くことができたので、それを受けて「私も明日からたまには職員を誉めて・・・」なんてあいさつをした。
 あれからほぼ一週間、結果はどうか、まだ誉めるところまでいかないなあ・・・・・。私の思うように成果が上がらないしぬるま湯というか職場の湯加減も良すぎる。職員を誉めるには、まだまだ時間がかかりそう。ということは、まだやめるわけにはいかないのだろうか。
 

11:37 午前 | 固定リンク

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