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2007.05.24

道州制論議はいいけれど

 安倍首相の「道州制ビジョンの3年以内の作成」を受けて、政府が道州制ビジョン懇談会を発足。それに先行して自民党の道州制調査会では、中間報告に向けて精力的に検討しているといわれ、参議院選挙のマニフェストに盛り込む、方針とも聞く。 つまり、ここへ来て、道州制論議が、熱を帯びてきたようだ。
 過疎の山村の村長として、この道州制論議について意見を述べたい。
 先に、道州制を導入する方法について、結論めいたことをいえば、基礎自治体の規模、あり方について、国が法律で決めなければ無理であろうと思う。全国を300自治体に再編することを念頭においた道州制であるなら、その再編を現在のような、自主的合併という方針を堅持していては、できないはずだ。さらに、道州の区割りについても国が決めなければ無理。
 そして、それを国主導で、ほんとうに実施した場合は、「山村の敗北」、すなわち、私の負けであり、山村はさらに疲弊していくのだろう、と思う。でも、最近の私の心境は、そういう国の国民として、国家が決めるなら、それで仕方ない、といった感じである。一山村村長の力では、どうしようもない厚い壁だということなのである。
 道州制という論議は、古くからあり、その根底は、行政の効率化であり、経済界を中心とした意見である。行政が非効率な運営では、お金がかかりすぎる。江戸時代の藩は、自主独立でやっていたではないか、今もその方法をとれば、国が財政、権限に関与しなくても地方は、地方で生きていけるではないか。そうすれば、国は、コンパクトになり、行政経費を大幅に削減できる、こんな感じではないのだろうか。
 しかし、江戸時代と平成のいまを、同じように考えられるのかどうか、である。いまの日本は、人口が増えている地域は限られており、バブル以後減った首都圏が、東京を中心に確実に人口増に転じている。東京一極集中と言われて久しいが、さらに集中しているということ。加えて、企業が本社を東京に置くようになっている。堺屋太一氏は、本社を一国の首都に集中させているような国は、日本だけと指摘しているが、現実問題は、人口も富も企業も東京=首都圏に集中している。この現実を認めた上で、道州制論議をしているのだろうか。
 戦後、一つの国として、日本国憲法を制定し、歩み出した国家が、江戸時代のような各藩の自主独立連邦国家になれるのであろうか。すなわち、私がいいたいのは、お金の話である。国民の義務や権利は、明確で、すべての国民がそれに従って努力している。しかし、納税の義務を果しても、サービスを提供するだけ集らない地域ができてしまった。これを、集らない地域の努力が足りないといって、切って捨てれるのであろうか。
 米沢藩の上杉鷹山のような殿様を各道州がもち、貧しくてもみんなで努力して、いい人生を送る。これができれば、そんなすばらしいことはない。私は、北海道や九州、四国を知らないが、数字で見る限り、自主独立でやっていきなさい、なんて無理というものだと思う。とすれば、当然、裕福なところのお金を回さなければいけない。
 その議論がきちんとなされなければ、国家分裂である。しかも、道州に仕事を任せて、といっているが、何を道州が担い、国が何をやるのか。では、都道府県は、どうするのか。あまりにも課題が多すぎる。
 どうして日本は、こんなにまでして自治体を大きくしたがるのか、その目的もわからぬまま、といった主旨を佐々木信夫教授が苦言(中日新聞紙つぶて)を呈しているが、まったくその通りである。
 防災、福祉、教育だって、基本的なことは国がやるべきである。その基本的とは、きちんとしてお金を確保することである。それを思うと、サービスを提供する基礎自治体は、小さいほどいい。お金は、きちんとして国税で集め、大事なところは国が予算を持ち、地方に任せる分は、それを地方交付税のような制度で配分する。これ以外に、いまの過疎、過密、つまり、人口も富も企業も偏在した日本の地方自治をいい形で維持する方法はないと考えている。道州制に反対です。だからこそ、この導入が決れば、私たち山村の敗北です。しかし、私は、生ある限り、この泰阜村で暮らしていきます。 
 これほど国民の生活に直結した大きな課題を、簡単に議論しないようにしてほしいものです。

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2007.05.14

ふるさと納税を考える

 田中康夫前長野県知事が、泰阜村へ住民票を移したとき、彼が、がんばっている自治体を応援したい、つまり、自分の税金をその自治体へ納税したい、という趣旨の発言をした。長野県には、市町村が多く、そのすべてががんばっているので、特定の自治体だけをひいきするような発言で、市町村関係者からは顰蹙をかったし、この住民票騒動は、最終的には、司法の判断も、過去の判例を踏襲し、混乱しただけで終った感じがする。しかも、田中支持者でも、この行動を是としなかった人も多かったことは、知事選挙結果からも推測できる。
 住民票問題は、住民票のあるところと税金を納める自治体とは、本来同じあるはずだが、そうはいかないので、地方税法の解釈では、判例もあり税金納める場所と住民票とは違ってもいいように、なっている。私は、税金の仕事をしたこともあり、そのことはよく承知している。
 田中康夫氏は、法学部出身でありながら、法律を学ぶことや、法律をどう解釈するか、といったことを考えない知事であった。彼は、自分の意思で、住民票を泰阜村へ移し、そこへ税金を納めるということができない、ことがおかしい、と考えたようである。私は、前述のとおり、わかっているが、彼は「そんなことはおかしい」という。おかしくても仕方ない、それが行政の解釈、つまり、税金の世界での常識である、これが我々普通の行政人が考えること。
 彼は、その当時の記者会見で、おばあちゃんがいる自治体へ、初恋の人がいた自治体へ、応援したい自治体へ、自分の税金を納めるようにしたっていいじゃない、というような話を何回もしたり、書いてもいた。そのことがあって、一部政治家の間では、ふるさと納税いいじゃないか、という話も出ていたようである。
 今回、菅総務大臣が、それを言ったことにより、参議院選挙向けではあっても、にわかに「ふるさと納税」が脚光をあびることになった。農山村出身者が、高校まで地元で消費し、税金を納めるようになると都市へ行く、その税金の一部を故郷へ、この考え方は、理解できる。ただ、泰阜村のような規模で考えると、それによって、村の財政が立ち直るような効果は期待できないだろうと思う。また、税金の仕事をした人間として考えると、制度をつくることが極めて難しいだろうとも思う。そんなことで、このふるさと納税の効果は、都市と地方をつなぐ、思いやりの心を醸成し、日本の国家づくりには役立つ政策だと考える。これを地方への税源移譲と結びつけるのは早計だと思うがいかがだろう。地方財政を支援するのなら、国家レベルできちんと税金を集める、いまの人口偏在では、都市にたくさん集る。それを地方交付税のように、配分する方法が一番である。
 もし、制度化するならば、東京で10万円の地方税を納める人が、一万円を泰阜へ納めたら、東京でその一万円を税額控除する方法が考えられる。他にも方法はあろうが、難しさが先に予想される。これも私が公務員だからかもしれない。
 田中康夫氏の行動は、世の中の常識を知事自ら覆すようなもので、多くの批判を浴びたが、もしかしたら、ふるさと納税を考える出発点になっているのかもしれない。知事みずから、非常識な行動で挑戦することなど、私の頭にはないしできないが、彼はそんな意味で市民活動派のまま知事をやったのであろう。
 田中氏去ったあと、私は村長として、村井新知事にお願いしべき事はお願いしているが、村井知事の人柄で、温かく接していただき感謝している。そして、静かな村長生活に戻っているが、このふるさと納税で、田中康夫氏の「そんなのおかしい」という視点も、忘れててはいけない、村長の資質だと思った次第である。

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