2015.10.27

野球の監督は大変(楽天 大久保監督去る)

 今年の1月25日、東京の品川プリンスホテルで東北楽天イーグルスの監督に就任した大久保博元氏の就任祝賀会が開催されました。少年野球教室に関わっていただいた縁で、私も発起人の一人となり、職員2名とともに参加しました。各界の代表者が集まり、盛大な祝賀会で大感激でした。星野仙一氏のあいさつもあり、サインももらってきました。多くの方のあいさつや激励の言葉では、大久保氏なら何とかなるという声が圧倒的でした。西武のコーチ、楽天の二軍監督でアーリーワークなど、若手を鍛え上げた実績や彼の頭のよさなどが期待されたものと思います。ただ、契約が一年で、その点については、大久保氏本人も一年勝負と言っていました。
 プロ野球もアメリカ式となり、GMという立場の人ができ、選手確保は、主に球団、フロントとなり、監督は、集められた選手を使うしかありません。外国人も使ってみなければわからない、という状況です。
 今年一年、楽天の試合が気になりました。なかなか思うように勝てません。何しろ、一点差負けが多く、ほんといらいらした試合が多くありました。9月12日、泰阜村応援団が宮城スタジアムへ押しかけ、グラウンドで楽天の練習を見たり、監督と話たり楽しい経験をさせてもらいました。その時は、一部マスコミが大久保監督辞意を示唆、といった報道があったあとでしたが、参加者の話では、大久保氏はまだそんなことは言っていない、ということでした。その後、成績不振を理由に辞意ということで、大久保氏らしい、と思いました。事情は、本人に聞いていないのでわかりませんが、彼は、結果を残せなかった責任としか言わないと思います。
 辞めることが確実となって、私は、職員に言いました。大久保監督が結果責任でやめるという。私は、長く村長をやっているが、結果責任を問われたらどうなるだろうか、と。20年間で500人の人口を減少させた村長であり、小中学校も保育園も統合し減らした村長。私も責任とる必要があるのでは。しかし、いまもこうして村長でいる。やはり、プロ野球の監督の方が厳しい立場だ、と。
 監督は、やめてもやめる選手は少ない。やはり責任は、トップなのでしょう。しかし、私は、大久保監督ほど人間ができていないので、村長の責任ということは、いっしょに働いている職員、君たちも責任あるのですよ、と言いたかったのだが、どうも分かった職員はわずか。
 泰阜村にとっては、デーブ野球教室に本人が参加できるようになれば、これほどうれしいことはないのだが、あの大久保氏が結果を残せなかったことが残念でならない。余談だが、横浜の中畑監督が辞める理由の一つにデーブをコーチにという要望が聞き入れられなかったから、という報道があったが、またいつか、デーブに指導を要請する球団があればいいのに、と思って期待しています。一方、私の責任も考えなければです。ともかく、大久保監督ご苦労さまでした。

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2015.01.09

住民を支える福祉とは

 平成27年になりました。私も村長6期目に入り、すでに半年が過ぎようとしています。長く村長という職についてしまいましたが、村政の課題が消えたり、悩みがなくなることはありません。20年の経験は、世の中思ったとおりにいかない、ということがよくわかりました。
 さて、昨年の暮れに、さいたま地裁で強盗殺人などの罪に問われた少年(18歳)に懲役15年の判決が言い渡された、のですが、法廷で明らかにされたこの少年の育った環境をこの1月8日の朝日新聞が取り上げました。これを読んで、何とも言えない衝撃を受けました。事件は、昨年3月26日に埼玉県川口市のアパートに暮らす、自分の祖父母の背中を包丁で刺して殺害し、母親(42歳、強盗罪などで服役中)と共謀して現金約8万円やキャッシュカードを奪った、というものです。小学校4年、別居中の両親が離婚。少年を引き取った母親は、知人男性から金銭的な支援をうけ、ホストクラブに通い続け、1か月も帰宅しないこともあった。少年は、「捨てられたかと思った」と答えた。5年生になると、母親が交際する別の男性と静岡へ、金がない時は野宿。学校にも行けず、その後、住民票を静岡においたまま、埼玉県内を転々、自治体が居場所を把握できなくなった。中学校も行かず、行けずと言った方がいいのか、この間に13歳下の妹ができた。母親は、少年に金を無心するようになる。だんだんエスカレート、少年は、うそを重ね実母のおばから現金4~5百万円を借りた。男性が失踪し、孤立。16歳になった少年は、母親と妹を養うため、塗装会社で働くものの、浪費する母親が給料の前借を迫り、結局給料のすべてが前借の穴埋めとなっていく。事件当日、殺してでも金を持ってこい、と母親から迫られ、祖父母宅で事件に及ぶ。ざっとこんな内容である。一番の味方であるはずの母親から追い詰められ、肉親から嫌がられながら借金を重ねた。少年の親族に裁判長が「あなただけではないが、周りに大人がいて、誰かが少年を助けられなかったのですか」と。最後に裁判長が少年に「君のことを思う人といっしょに、社会に帰ってくるのを我々も待っていようと思う」と語りかけ、少年は、はい、と小さな声で答えた。この正月に、少年に1通の年賀状が届いた。事件の弁護人から。年賀状をもらうのは、「小学校以来、うれしかった」と弁護士に笑顔をみせたという。
 周りに大人がいて、誰か助けられなかったのですか、これは、私に言われているように感じた。現実にこんな少年がいて、事件を起こす。学校にもいけない。こんな少年を支援できない政治、行政、福祉って何だろうと思う。
かといって、何ができるだろうか。どんな村人がいるか、1800人だったら把握できる。把握できるのだったら、何もできないまでも寄り添うことができる行政でありたい、と年の初めに思った次第です。豊かな日本、アベノミクスで経済第一の日本の中で、車中生活をしている家族がたくさんいるとの報道もある。こんな少年、少女たちがまだいるのだろうと思うと、日本の豊かさとは何か、これも年頭に考えさせられてしまうのです。

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2013.11.25

福島県での現職市町村長の落選に思う

 地方自治体の長の選挙では、現職有利といわれる。特に、バブル崩壊以後の税収の落ち込みや国、地方の財政も厳しい中では、かつてのようにインフラ整備を訴えてもそのお金もなく、トップになることそのものに従来型の魅力がないだけに余計に現職有利といえる。私が当選したのが平成6年だが、その前後は、いま振り返れば、バブルははじけていたものの、まだまだ地方は、元気もあり、竹下総理のふるさと創生1億円の残像もあって、若いトップの地域おこし、地域づくりに期待するムードがあり、多くの若い市町村長が誕生したように記憶している。ここ数年は、逆に、難しい時代となり、経験の方が大事にされる傾向だと感じている。
 そんな中で、福島では、相次いで現職市町村長が敗北している。大震災の被災地住民の持っていき場のない怒りややり切れない気持ちが最も身近な選挙への投票行動になっている、というのが大方の見方であり、私もそうであろうと思う。この選挙を通じて二つのことを感じている。
 一つは、政治の現場は、市町村であるという極めて当たり前の事実が浮き彫りになったということ。こんな小さな行政現場である泰阜村でも、住民は、まず「村役場」が政府なのである。たとえば、介護保険の制度は、国が作り、その制度に従ってサービスを展開しているのが保険者である市町村。わが村の高齢者は、年金から介護保険料が天引きされ、後期高齢者保険料も天引きされる。年金の支給額が減って苦しいということを私(村長)に訴える。最近その苦情が特に増えたように思う。もちろん介護保険は、村長に保険者責任もあるけれど、年金から天引きする方法は、少なくとも国の制度設計である。それに対する文句は、厚生労働大臣か総理大臣に言ってほしいけれど、そうはいかない。減反補助金削減や減反政策廃止もやはり村長が受けてたつことになる。我々は、そういう現場にいる。国会議員も県会議員も選んでいるのだが、市町村長は、自分のことを考えてくれるはずという点で、その距離感覚が国、県の政治家と違うのではないだろうか。
 いま一つは、3・11のような大災害があると、その前の行政とその後の行政では、まったく違うと推測される。つまり、平時のときに力を発揮できたトップが有事の時に力を発揮できるとは限らない、力を発揮という表現は、よくないので、言い方を変えれば、住民から信頼されるとはいえない、という極めて冷徹な事実がある、ということ。
住民のために、住民のことを常に考えているのだけれど、住民側から見たときにそう思えない。ある福島県の避難している区長さんが来村して話をしてくれたが、震災以後、村長がなかなか話を聞いてくれない、という表現をしていた。いままでは聞いてくれたのに。私は、こんな時の村長の仕事は、対外的な対応ばっかりで、そうそう時間がつくれないと同情し、村長の肩を持つけれど、現実は厳しい。
 泰阜村に南相馬の原発被害で避難している方がいる。「うまいことを言われても帰ることは無理だと思う」ということで、泰阜村への永住を決意した。いまの空き家活用の民家が老朽化しているので、村で住宅を建設し、そこに住んでいただく方針にした。その方も南相馬市の対応に満足しているように思われない。桜井市長は、よく知っているし、がんばっていることも承知しているが、それでもである。
 泰阜村は、満州に分村をつくり、しかし、多くの村民を犠牲にしている。満州移民政策という国策が悪い、つまり、国が悪いので我々はこんな目にあい、こんなに苦労した、という声が多い。これも事実であるが、最近の私は、では、当事者責任は、どうなのだろうか、と考えている。今度こそ、国策のせいにしないで、自分たちの幸せを守らなければいけない。いまの山村は、再び分村をしなければいけないような状況に近いのでは、とも思う。山村に対する国の政策が悪いのであるが、それでもその国に生きている者として、自分でも生きていく道を考えなくてはいけない。ただ、満州分村は、私が体験したことでもなく、その時私が村長だったらどうしたのだろうかその答えは持ち合わせない。これほどの大災害で、東電以外、誰が悪いということでないだけに、ほんとうに複雑な思いにかられている。
 現職は、落選したけれど、新しく就任した市町村長がどう評価されるのか。その分かれ目は、住民とどう接し、何をすれば信頼関係ができるのか、そこを見極めることにあるのだろうと思う。ただ、こうして評論している私がいかに幸せな立場にあるか、それはわかっているつもりですが。

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2013.06.06

「お酒は楽しく二人酒」がんばれ藤和也!

 平成25年6月2日日曜日の午後、飯田市鼎の文化センターで長野県下伊那郡松川町在住の歌手「藤和也」のデビュー10周年記念と新曲発表会を合わせた歌謡ショーが開催されました。藤和也さんからご招待をいただき家内といっしょに参加いたしました。藤さんと私の最初の出会いは、泰阜村の稲伏戸という集落の祭典のときに、林富春さんという私の親しい先輩が、歌手藤和也の歌謡ショーを企画し、その席で出会いました。歌声を聴き、少しCDを購入したのですが、実直な人柄だと感じましたが、歌声もきれいな声で素直ですばらしいものでした。その後、次の新曲「おふくろ郵便」も発売されました。
 その頃、山村を取り巻く環境は、年々厳しくなりました。平成13年度ころからは、平成の大合併といわれる市町村合併が推進され、合わせて三位一体改革といわれた地方交付税を大幅削減するという事態がそれに拍車をかけました。もともと大型事業に投資してきた泰阜村は、借金返済のピークのころで、村の財政は、いつ破綻してもおかしくない状況でした。飯田下伊那を一つにする合併論議もしたのですが、結局まとまらず、ならば自立という選択をしました。平成16年3月に方針を決めましたが、苦しい財政のなかで、それでも何かしようと職員に「ゼロ予算事業」=お金は使わなくてアイデアと汗でできること=の提案をしてもらいました。たくさん出た提案の中から5つの事業を平成17年度の事業として実施しました。その中に、「お酒は楽しくふたり酒事業」がありました。これは、ある職員が「俺は、何もできないけれど、酒なら飲めるので、独居老人などの家に出向き、晩酌の相手をならできるのでどうか、馬鹿なような提案ですが」と言いました。私は、これは面白いということで「お酒は楽しく二人酒」という名前をつけました。これがユニークということで評判を呼び、多くのマスコミで取り上げられました。この話題をみつけた藤和也さんが、これはいいということで、このタイトルで作詞をして送ってくれました。作曲はできないが、ということでした。気になりつつ私の書類の中で眠っていました。
 今回、藤和也さんの新曲「おまえの涙」という曲のカップリング曲として、藤和也作詞の「お酒は楽しく二人酒」が認められ採用されたのです。作曲は、合田道人先生で、徳間ジャパンから発売されました。
 藤和也参加連絡をいただきこの発表会にぜひと招待してもらったのです。大変光栄なことで感激したのですが、途中、このエピソードの紹介で舞台にも上がらせていただき感謝、感謝でした。
 「おまえの涙」は、演歌調でなくテンポのいい歌謡曲調で、「お酒は楽しく二人酒」は、演歌調です。泰阜村のこんな取り組みがCDになったことで永遠に残されることになりました。ほんとうれしいことです。
 藤和也さんの歌、歌声は、ほんと素直で気持ちよくいくら聞いても飽きません。どちらの曲もカラオケで配信されることにもなりました。私も歌います。どうかこれをお読みなった皆様、藤和也を応援していただくと同時に「お酒は楽しく二人酒」もよろしくお願いいたします。村では、この事業を少し休んでいましたが、本年からまた始めます。

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2013.04.01

「祈る」ということ

 私の村、泰阜村に「カルメル会修道院」があります。過日、泰阜村を訪問してくれたわが友、元埼玉県庁職員の加藤氏と上智大学学生二人とともに、しばらくぶりに修道院を尋ねました。突然の訪問だったのですが、快く対応してくれました。もう10年も前になるのでしょうか、この修道院の竣工式に招待され、その祝辞で「祈り」という話をしたことを思い出しました。
 年齢を重ねてきたせいなのか、このごろ祈るしかないことばかり、と思うようになりました。平成6年に村長に就任し、半年もたたない平成7年1月に阪神・淡路大震災が発生しました。そして、2年前の3月、東日本大震災が発生。特に、東日本大震災では、地震、津波はともかく、原発事故が起こりました。飯館村の方の話を2回ほど聞く機会がありましたが、私どもでは、ただ聞くだけしかできません。こんなことがあっていいのか、どうしてこんなことが、と思います。実は、大震災ばかりでなく、我々の周りには、そんなことがたくさんあります。子宮頚がん予防のために、予防接種が有効ということで国も自治体も積極的に取り組みが進められました。私は、予防接種慎重派です。それは、病気になるのは、どこかで自分自身を納得させられるが、予防接種の事故は、あのとき受けなければよかった、という思いが生涯消えないと思うからです。しかし、それは、ほんの小さな危険性なので、予防接種推進派の勢力が勝る時代となったように思います。ところが、先月の中日新聞が子宮頚がんワクチンの副反応を取り上げました。なるほどと思って気にしていると、この副反応問題がけっこう活字になっているようです。ガンになっていない若い女性がガンを予防するために予防接種を受け、一生障害を負うことになるケースが少ないとはいえあります。しかも予防接種法の規定にない時期だったので国の補償もありません。私は、障害を持った彼女にかける言葉はありません。
 北海道で吹雪があり、閉じ込められた親子がエンジンをかけていたために一酸化炭素中毒で亡くなったという。また、軽トラックから降りて助かろうとした親子が目的地へ着く前に吹雪に巻き込まれ、父親は、娘をかばうように亡くなったという。私でも雪の中へ閉じ込められたとき、凍死しないようにエンジンはかけたままにするかもしれない。軽トラックの中でじっと待っていれば・・・・。
 長野県が男女とも全国一位の長寿県になったという報道があり、多くの方がこれはたいしたものだという。しかし、私のように国より20年早く進んだ高齢社会の中で、在宅福祉を推進してき立場でいえば、決して喜ぶ気になれない。ひと月ほど前、ある女性から電話をいただいた。旦那様が認知症(この病名に違和感を持つのですが)になってしまったという。私は、お父さん(旦那様)がしっかりしていて、何もかもお父さんの言うとおりにやってきて、頼りにしていたのに、まさか、こんなことになるなって考えてみなかった。悲しいけど、お世話になるので頼む、という。私は、「いいんだに、歳だもんで、大丈夫」、としか言いようがなかった。特養のベッドで長くがんばっているかつて活躍したおじいさんがいる。最初は、子供も顔を出したが、このごろは、あまり見ない。ただうつろな顔をして、食事の時間になれば、食べたくなくても早く食べな、とせかされ、人間の尊厳って何なのだろうか、おじいさん長生きしたばっかりにと思ってしまう。高齢者を冷静にみていると、長生きを幸せと感じる人の方が少ないと私は思う。長寿全国一って、その中身がわかっているのだろうか。
 こうして世の中の出来事をみていると、私に何ができるのだろうか、今の私にできることは何もない。でも、ただ一つできるとしたら、「祈る」こと。被災された方々も障害を持った方々も特養にいるおじいさんも認知症になった旦那様も不幸にして亡くなった方々もみんな幸せになってほしい、と祈ることなら、と思う。
 村長として、思うようにいかないことばかりで、職員にいろいろ文句をいう。こんなに長く村長をやって、いつも同じことを言っているのに俺の考えていることがわからないのか!と。しかし、村長とは違う人間で、同じように考えろ、というのも無理なことなのだろう。そうはいってもなんでわからないのか、と思うと毎日がストレス。
 そんな村長であっても、カルメル会のシスターの皆さんが泰阜村のこと、泰阜村長の幸せを祈っているのですよ、と言ってくれる。この言葉を聞いて、ほんとにありがたいことだと思う。どんなに社会が進歩しても、技術が発展しても、便利になっても、私たちが人間である限り、祈るしかない現実があることを忘れてはいけないと桜の花を見ながら思う。
 
 
 

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2012.10.30

日本脳炎の予防接種での死

 日本脳炎の予防接種を受けた子供が死亡した、というニュースが報道された。その後の調査で、過去にも事故があったことも伝えられている。何とも痛ましく言葉もないが、その病気になっての死と予防接種での死を考えたとき、どちらが受け入れられる、つまり後悔が少ないのだろうか。死が避けられないとすれば、病気の方が受容できるのかもしれない、と思う。
 医師会の先生方との懇談では、日本の予防接種は、遅れている、との話がでる。比較ではそうなのだろうが、万が一のことを考えたとき、私は、遅れているくらい、すなわち慎重すぎると言われる予防接種後進国日本の方がいいのでは、と思ってきた。ここのところ、子宮頚がん、肺炎球菌も必要ということで開始された。また毎年のことながらインフルエンザ。日本脳炎は、不活化ワクチンになったが。
 予防接種といえば、安全が当たり前、そして効果のあるもの、という固定観念を住民(国民)の多くが持っている。したがって、問診を少し丁寧にやったり、接種前の対応に時間がかかると、予防接種程度にこんなに時間をかけて審査をやらなくてもいいのに、これが普通の人の感覚である。
 そんな中での事故(死)である。私は、やっぱりこういうことが起こるのだ、そうだろうなあと思った。もちろん、極めて特殊な事例といわれるのかもしれない。しかし、現実に予防接種でもそういうリスクがある、ということを知らしめた事故であった。それはわかったいたはずなのに、いつの間にか忘れられてきた、ということかもしれない。
 泰阜村は、集団検診を廃止し、また、健康づくりや介護予防に力を入れていない。ただ、世間並みにやっているのかもしれないが、村長は、やろうとは思っていない。病気を発見したかったら、きちんとした検査を受けた方がいいし、あたかも効果があるように健康づくりや予防に取り組むより、遺伝としての病気リスクを考えて対応するなど、個々人それぞれが考え、個別対応した方がはるかにいい。集団(マス)で考えるのは、大正、昭和の感染症対策や栄養不足時代の保健活動が幅をきかしたころの話。これだけ長寿社会になった平成の世に、相変わらず集団検診や集団健康づくりなど必要ないはず。
 実は、この論理と予防接種も似ていて、病気の予防には、限界があること。また、かかってから対応しても大丈夫なものもある。予防接種のリスクを考えたとき、どこまで予防接種に頼るのか、極めて難しい判断だと思う。接種前に、事故があっても仕方ありません、というような契約が必要かもしれません。介護予防で頑張った人が要介護者になったとき、担当保健師は、どのように説明するのだろうか。日本脳炎にならないために予防接種を受けた人が、日本脳炎にかからず死を迎えてしまった。予防接種を受けなくても生涯日本脳炎なんかにかからなかったかもしれない。これはわからない。
 不老長寿を求めてきた人類も、長寿社会がすべていいわけではないことに気づき始めた。私たちは、発展という影で、実は、大きな過信を持ち、大事なことを忘れてしまったように思う。生命あるものいずれ死を迎えるというどうしようもない事実。健康づくり、介護予防といくら叫んでも、誰もが老い、死を迎える。病気にかからない予防接種も決して安全なものではないという事実。
 車社会で生きているので、どこで交通事故にあうかわからない。交通事故をなくすには、車の無い社会をつくらなければならない。私たちは、あらゆる面でハイリスク社会を生きている。
 日本脳炎予防接種の死が教えるもの、それは、どんなに科学が発展しても、科学万能ではないということ。やはり、生物の命は、人間ではコントロールできないもの、と考えなくてはならない。自然もまた同じであろう。
 それにしても病気を予防するはずの注射で生命を落とすことのショックは、計り知れない。予防接種を実施する村の責任者としてほんとに不安である。責任というより現実の事故に対し、私は、説明する言葉が思い浮かばない。実は、実施する医者の方がもっと大変であるとは思うが。
 

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2012.08.24

その時代を生きる

 世の中の変化が激しく、年齢を重ねた我々では、ついていけないことが多い。たとえば、AKB48にしてもスマートフォンにしてもよくわからない。かつて、役所の通知は、手書きであった。字の上手な人は、それだけで価値があった。その時代に、ワープロなどをみんなが使うようになるとは、考えてもみなかった。いまは、私の机にもパソコンが二台置かれている。文書も手書きでなく、こうしてパソコンを使っている。こんな時代がくるとは、考えてもみなかった。私個人としての驚きは、あのレコードが無くなりCDに変わったこと。レコード大賞は、いまでも残っているが、友人がいまにレコードが無くなると言ったとき、そんなバカな、と言った記憶がある。自分では、どうすることもできない時が流れていく。
 下伊那郡阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が建設される。多くの満州移民を送った下伊那の中に、歴史の伝承、平和の希求のシンボルができることは、すばらしいことと思って期待している。そんな中で、強く感じることがある。それは、戦後67年経過し、戦争を知らない世代が過半数を占める現代から「満州開拓移民」ということを振り返ることの意味である。泰阜村は、満州泰阜分村を建設し、1174人という村民を送りだした。その分村建設は、昭和13年の議会で決定している。当時は、まだ二元代表制になっていないので、議会の代表は、村長であったはず。したがって、村全体で決めた。隣の現阿南町の大下條、当時の大下條村は、佐々木という村長が満州移民政策に批判的で、開拓に出すなら国内という方針であった。天竜川を挟み全く対照的な方針といえる。
 この歴史をいま振り返ると、大下條村は、いい選択で、泰阜村は、悪い選択だった、という評価もできる。はっきりした声でもなく、何となくだが、満州へ分村をつくる計画をした泰阜村の当時の為政者は、間違った選択をした、という雰囲気を感じてならない。私が村長にならなければ、私自身も心のどこかでそういう思いを持ったのかもしれない。4年前に「満洲泰阜分村70年の歴史と記憶」を出版したころからいろいろ考えるようになった。
 昭和13年当時、私が村長だったらどうしただろう、と。6000人近い村民を、飢えさせずに、国民村民として生活させていくにはどうするか、それなりの議論の結果だったんだろう、と思う。いまのように、学問のできる人は、東京へ行ってしまう時代ではない。山村でも優秀な知識人が多かったころの選択である。起死回生策として選択したのではないだろうか。国も県も積極的に推進し、財政的な支援もある。それに乗ったわが村の先輩の選択は、それなりに評価しなくてはいけない、と思うようになった。
 これは、20世紀の後半の経済成長時代を経験し、山村でもトイレは水洗になり、どこの家庭でも自家用車があり、食べ物もあふれ、不況とはいえ、とりあえず明日の暮らしの心配もない、そんな時代に生きている人間が過去をどう振り返るのか、すなわち、歴史観とは、何かということである。
 私の母親は、大正15年、つまり昭和元年生まれであるが、太平洋戦争がそのまま青春である。なんと不幸だったか、という言葉は聞いたことはないが、私の母だけでなく、その時代に生きた人はたくさんいる。そして亡くなった方も。私は、昭和25年に生まれたが、もう少し後に生まれれば、と思ったり、あの平安時代に生まれれば、と思ったり、将軍家に生まれればと考えたりするけれど、結局、今を生きるしかない、ということ。泰阜村でいえば、過疎化という言葉とともに、つまり人口減少とともに生きてきたのである。それでも経済的には、毎年毎年豊かになっていく社会を生きさせてもらった。
 それぞれが「その時代を生きる」しかない。その中で、過去を振り返り、未来を志向する。それには、かなりの想像力を働かせないと、間違った歴史観、未来観になるのではないだろうか。飽食の時代に、飢えた時代を想像する、平和ボケの日本で戦争を想像する、よほどの努力をして、感受性をもたないと無理だろう。しかし、それでもいまの時代を生きている私たちは、今の時代を受けとめながら、歴史観や未来観を磨くことが必要だと。
 満州開拓が苦しい逃避行だけで語られたり、戦争批判だけにならないことが大切ではないだろうか。その時代を生きた人間の苦しみや悲しみに思いを馳せてもらいたいものだ。
 過疎の山村で「起死回生策」を見いだせない平成24年の村長。満州開拓を起死回生策と選択した昭和13年の村長。どちらにもその時代があり、それぞれの苦しみ、悲しみがあったことを次世代も考えてほしいものだが。
 
 

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2012.02.24

発達障害って何!!

 この3月の議会に、就学相談事務協議会の設立について、という規約改正案件を提案することになった。これは、小学校へ入学する子供や通学している子供で、通常学級で勉強することが難しい子供たちを「判定」する事務をいままで飯田市へ委託をしていたのだか、飯田市でも判定会議にかかる子供の数が増えて大変だからということで、泰阜村を含む南部5町村(阿南町、下條村、天龍村、売木村)で新たな協議会を設立するための手続きということ。いままで飯田市へ委託していたことを廃止し、新たに作るために、地方自治法の規定で必要な手続きで、そのことはわかる。
 私は、この平成も24年経過した現在、障害者福祉の世界では、ノーマライゼーションという言葉がようやく自然に使われるようになった。ところが、世の中全体の動きは、ノーマライゼーション、私の解釈では、どんな障害を持っても、普通の生活が継続される、健常者と同じ生活ができること、と思っているが、それとは逆になっていくような気がしてならない。
 この判定会議なるものがその象徴といっていい。就学相談という名称だが、要は、あなたは、普通の学校では無理で、特別支援学級(いわゆる特殊学級)、養護学校へ行ってください、という判定をするのである。この判定を受ける子供の数がどんどん増えている、ということにも驚いている。
 私の2番目の娘の同級生にS君がいた。軽いダウン症だったと思うが、保育園は、いっしょにすごした。この子を普通学級に入れよう、つまり、泰阜北小学校の一年生にしようということで、診療所の医師ががんばるので、私も応援した。しかし、最後は、そのやりとりの中で、両親が「いいです、養護学校で」ということになった。堅いご両親で、みんなに迷惑をかけたくなかったと思う。診療所の医師は、教育委員会に対し激怒していた。私もS君は、普通学級で過ごせたと今でも思っている。分数計算なんかできなくたって、いいじゃないか、と思う。
 いま、こんなに豊かになった日本社会で、私たちは、子供たちを学力という基準だけで「発達障害」というレッテルを貼って差別しているのではないか、と思う。数年前、私のこの指摘に対し、判定委員長の先生が「それがその子のためである」という返答をした。教員というのは、そういうことを言うのだ、と思った。いま、私は、在宅福祉を進める中で、住み慣れた家で、地域で最期を迎えるということは、人間の尊厳を守るということ。いまこそ日本の福祉社会は、人間の尊厳を確保するというそのことを考えてみるべき、と主張している。特養やすおか荘をたまに訪れる。そこに横たわっている人、ただテレビだけを無表情で見ている人、これでいいのだろうか、と思う。しかし、いまの人員や環境では、それしかできない。
 障害を持った人は、みんな隔離されていく社会でいいのだろうか。判定会議で、普通学級は無理、といわれた人は、生涯それを背負っていくことになる。その人も生を受けた以上、生きていかなければならない。世の中で、ずっと差別され続けるのであろう。それを何とも思わない、それの方が本人のためだ、という社会で、私は正常と考えている我々に、発達障害はないのだろうか。
 もちろんすべての障害者が普通学級に行くことが理想だが、そこまでは、求めない。しかし、この判定会議にかけるような人は、みんな普通学級へいくべきであり、そういう社会を作る責任が我々にあるのではないだろうか。
 最後に、その判定をする専門家とは?養護学校の先生であったり、保健師だという。保健師なんて、看護婦さんより一年余分に学校へ行っただけで、何の専門家でもない、と私は思うが、世の中では、専門家にしてしまった。こんな人たちに判定されて差別されていく「当事者」の気持ちを思うと・・・。私の無力が悲しい。

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2011.07.21

おめでとう!なでしこジャパン

 女子サッカーワールドカップでのなでしこジャパンの優勝は、震災で苦しむ日本に勇気と感動を与えてくれた。国民みんなが感激したと思う。サッカーは、男子のスポーツと思ってきた年代ではあるが、今回のなでしこの活躍は、ほんとうに感動した。
 私がほんとうに観戦したのは、スウェーデンの試合と決勝のアメリカ戦。ドイツ戦は、ニュースでしかみていない。実は、ドイツ戦のとき、おそらく負けると思っていたし、ここまで来ただけですごいこと、と思っていた。ところが、延長の末、ドイツに勝ったという報に、思わず拍手。これは、応援しなければということでスウェーデン戦をみた。先制され追いつき、さらに後半の2得点は、ほうとうに拍手、拍手。そして、決勝。アメリカ選手の大きさ、ドリブルでの速さ、川澄という選手が速いと思っていたが、それ以上にアメリカの選手は速かった。立てば、首一つ、大げさにいえば、胸あたりまでしか届かない日本選手。これだけ見ても苦戦は、想像できた。アメリカの怒涛の攻撃がなかなかゴールを割らない。日本がなんとか先取点をと思っていたが、結局アメリカが先に1点。ここまでか、と思ったときに、宮間選手の同点ゴール。拍手。そして延長戦、ここでもだめかと思ったときの沢選手の同点ゴール。沢選手のゴールは、素人の私にもほんとうに技術の高いキックに見えた。
 PK戦での沢選手のあの祈るようなシーンが特に印象に残っている。
 日本の勝因は、マスコミで報道されつくされているのだろうし、私たちでは、想像できないほど厳しい練習の成果だろうと思う。それにしても、優勝という結果に、18日の朝は、なんとも高揚した気分だった。
 すべてを自分の村の行政と関連付ける癖がついている。今回のなでしこの活躍は、日本女子の体格、特性をきちんと把握、分析し、自分たちができることを愚直にやりぬいた結果だと思う。身長が足りないから、足が遅いから、比較してもどうしようもないことを理由に、負ける理由づけを「私」ならするのだろう。うちの職員もそうなのだと思う。30年もかかって世界の頂点に立った。そういえば、過疎と言われて40数年、そのなかで、私は、何か結果をだせたのだろうか。
 もう一度自分たちの村の実力を分析し、その力をどのように発揮すれば、前進できるのか、やらねばならない。こんなことを教えてくれたなでしこジャパンであった。
 あの沢選手の明るく堂々としたキャップテンシー。選手を鼓舞するために自ら先頭に立つ姿は、ほんとうに立派であった。やっぱり、私自身が走り回らなければ、とも思った次第。女性を鍛えることは、大変難しいという。それをやってきた佐々木監督もまたすばらしい。
 私は、わが村の弓道女子チームに「なでしこ泰阜」という名前を推せんし、チーム登録するが、泰阜村役場もなでしこ泰阜にしたいなあ、と思ったが、今の状態では、本家に失礼ということか。

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2011.04.13

東日本大震災に深く考えさせられて

 3月11日の午後、議会の常任委員会に出席していたが、3回のゆれのあとテレビをみた。名取市へ津波が押し寄せる映像が最初だったが、私の眼には、それはフィクション映画のように映った。それが現実の出来事である、と思えないような大災害であった。
 私は、身勝手な人間だということがわかったのですが、最初に思ったのは、「ああ泰阜でなくてよかった」ということでした。その後、壊滅的な被害を受けた市町村、とりわけ町、村のことを考えると、私がその町村の長だったら、どうするのだろうか、と考えさせられた。自分の能力では、町の再生ができないのではないだろうか、これが本音である。それだけに、テレビに出演する記者や評論家のようなことはいえない。
 今回の大震災の対応が難しく、複雑なのは、原発の破壊があったからである。福島原発が、女川のような程度だったら、原発に対する評価は、全く違ったものになったような気がする。世の中の歴史は、常に、紙一重の世界で大きく違うことを改めて痛感させられた。
 この大震災に関しては、村としてもその能力の範囲で支援をしていこうと考えているが、これは当たり前のことで、明日は、わが身であるということ。この小文の中では、支援うんぬんでなく、この大震災をどのように考えてこれからどんな日本を想像したらいいのか、考えたみたい。
 毎日、3.11のことが書かれている新聞の中で、4月10日付信濃毎日新聞の姜尚中(カン・サンジュン)東大大学院教授に聞く、という紙面での姜氏の言葉が印象に残った。それは、今回の震災は、戦後という時代の終わり、を現実のものにした。戦後という時代は、東京的なものを地方に増殖させることが豊かさにつながるということであり、ほとんど根拠のない科学技術へのオプティミズム(楽観主義)を、みんなが共有していた、という。広島、長崎を経験しながら、原子力の平和利用という逆立ちの論理がまかり通った。そして、東京的な豊かさを支えていたのが福島という地域社会であったことも白日の下にさらされた、という。
 姜氏は、だからこそ3.11以前には戻れないと思う、と述べている。復興、復旧でなく、新生という言葉でなければならない。
 私は、戦後の山村の村づくりが「東京に追いつけ、追い越せ」という開発型であった。しょせん、東京なんかに追いつけるはずなどないのに、まさに東京的なものに近づくことこそが成長、発展、豊かさの享受と考えてきた。姜氏から離れるが、今回の震災でものづくりの現場で部品が供給されない事態となった。世界のトヨタのジャストイン方式、つまり、在庫を持たずに必要なものを必要な時につくる、という考え方に疑問を呈す人も現れた。
 いつかこの成長、発展万能主義、科学技術の進歩が自然界を制するといった考え方がつまずくのではないだろうか、と漠然と考えていた私にとって、今回の科学者の想像を超える大震災は、人間の生き方をもう一度考え直すことになるだろうとも感じていた。まさに、姜氏のいう東京的なものを地方に増殖させてきたこの流れを断ち切ることが「新生」になるのではないだろうか、と思う。
 東北的なものをつくりあげるには、時間がかかるだろうし、気が遠くなるのかもしれない。しかし、その東北的なものを考え、作り上げていくことに長く、長く支援していくことこそが我々にできる支援であろうと思う。
 そして、やはり泰阜は、泰阜的に生きる以外にない、ということ。これが、今回の震災からとりあえず学んだことである。
 

10:50 午前 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)